コラム

2016.07.02

ブリテンの生涯 その4

1970年代に入り、重い心臓病に悩まされるようになったブリテンは、1973年に大きな手術を受け、以降車椅子生活を強いられるようになるといった闘病生活を送りながらも、オペラ≪ヴェニスに死す≫(1973)や≪弦楽四重奏曲 第3番≫(1975)などの作曲にも意欲的に取り組んでいます。
晩年にはバロン(男爵)の称号を受け、名実共に英国最高の音楽家として1976年12月に天国へと召されていきました。息を引き取る際には、1937年の出会い以来、生涯の苦楽を共にしたテノール歌手、ピーター・ピアーズがそばにいたといいます。ブリテンは、その声楽曲の多くをピアーズに歌わせることを想定し作曲していました。また、ピアーズのピアノ伴奏を自身が務めデュオを行ったり、作曲においてもピアーズの意見を取り入れたりするなど、二人は互いの芸術を理解し高め合う仲でした。そして同時に、私生活においても、同性パートナーとして支え合っていたのでした。オールドバラの教会に埋葬されたブリテンの傍らには、1986年になって天に召されたピアーズが、寄り添うように眠っています。

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2016.06.23

ブリテンの生涯 その3

1939年、ブリテンはピアーズと共にアメリカへ渡り、1942年3月までの2年半をアメリカで過ごします。この期間は第二次世界大戦中にあたりますが、ブリテンは兵役拒否を裁判所に申し立てたため、音楽家としての仕事を続けることができました。
そして帰国後1945年の6月には、オペラ≪ピーター・グライムズ≫を初演し、大成功をおさめました。このオペラは本来、1944年夏のバークシャー音楽祭で上演される予定で、当初主役「グライムズ」はバリトンを想定していましたが、戦争のため音楽祭が中止になります。そこで彼は「グライムズ」をテノールに変更し、ピアーズを想定して作曲しました。この時期のブリテンは、「イングリッシュ・オペラ・グループ」やオールドバラ音楽祭の創設などを通じて自らの音楽に磨きをかけ、次々と作品を発表し、成功をおさめていきます。彼の第10作目のオペラとなった≪夏の夜の夢≫もこの時期の作品であり、1960年にオールドバラで初演され、大成功をおさめました。
また、1956年2月には日本を訪れ、その滞在中に観劇した伝統芸能の能楽『隅田川』に深い感銘を受けたブリテンは、『隅田川』を元にしたオペラ≪カーリュー・リヴァー≫を作曲し、1964年に発表しました。

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2016.06.15

ブリテンの生涯 その2

ブリテンは1934年にウィーンを訪れ、そこでアルバン・ベルクのオペラ≪ヴォツェック≫を観劇します。感銘を受け、大学卒業後すぐウィーンに行ってベルクに師事することを望みましたが、大学や両親からの反対を受け、叶えることができませんでした。ベルクはブリテンにとって幻の師となりましたが、1936年にバルセロナで開かれたISCM[国際現代音楽協会]音楽祭で、ブリテンはベルクのヴァイオリン協奏曲に立ち会い、その際の感想を自身の日記で、「なんと崇高な音楽だ!」と綴っていることからも、後の生涯においても彼がベルクの音楽へ魅力を感じていたことがわかります。
1935年からは英国郵政省(GPO)映画制作部において、作曲の仕事を任されるようになります。主にドキュメンタリー映画や記録映画のための伴奏音楽など、合計25本の映画音楽をその後一年半に渡り作曲しました。
このとき、同じスタジオで台本を担当していた英国の詩人ウィスタン・ヒュー・オーデンと出会い、彼の才気に惹かれたことをブリテンは自身の日記に綴っています。オーデンとは映画制作を共同で取り組み、彼の詩による作品もいくつか作曲しています。
1937年、ブリテンは母エディスを亡くします。そして同年、テノール歌手ピーター・ピアーズと知り合い、その後ピアーズとは生涯にわたり特別な関係を築いていくことになります。

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2016.06.04

ブリテンの生涯 その1

ベンジャミン・ブリテンは、1913年11月22日、英国の最も東にあるサフォーク州で生まれました。父は歯医者で音楽とは無縁でしたが、母は熱心なアマチュア歌手で、幼少期のブリテンにピアノの手ほどきをしていました。
幼い頃から身体が弱く、先天的に心臓が弱かったブリテンですが、7歳で初めて学校に入学し、正式にピアノのレッスンを受けるようになると、たちどころにピアニストとして才能を表しました。
11歳の時に初めてオーケストラのコンサートを鑑賞し、そこで英国の作曲家フランク・ブリッジ(1879年~1941年)の交響曲≪海≫を聴き感銘を受けます。
その後13歳からブリッジに作曲を習い始め、彼の影響を強く受けたブリテンは、この頃から本格的に作曲家への道を志すようになり、16歳の頃、ロンドンの王立音楽大学(RCM)の奨学金を得て、入学します。

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2016.05.25

英国のオペラ その2

パーセルが基礎を作った後に活躍したのは、ヘンデルでした。ヘンデルはドイツ出身ですが、25歳のときにはイギリスにわたり、その後帰化しています。こんにち上演される彼の主要なオラトリオやオペラはほとんどイギリスで作曲されました。ヘンデルはイタリア風のオペラをイギリスに根付かせ、大きな名声を得ました。
ヘンデル亡き後、イギリスの音楽界は一見大きな動きがないように見られることが多いですが、18世紀も自国および海外の作曲家によりロンドンは活発であったようです。オペラはというと、大衆的、風刺的なバラッド・オペラが流行します。それは既存の歌謡曲等を用いた、現代のカタログ・ミュージカルのようなものでした。大陸のオペラとは一線を画すものでしたが、イギリス独自のジャンルとして確立され、他国にも影響を与えました。
19世紀にはエルガーなどの作曲家が活躍しますが、“オペラ作曲家”として世界的な功績を残す人物は、ブリテン以前には現われませんでした。

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2016.05.19

英国のオペラ その1

シェイクスピアが活躍した1600年頃にイタリアでオペラが誕生します。イギリスでは、16世紀~17世紀前半にはタヴァナーやタリス、バード、ダウランドといった作曲家が優れた音楽を書き、音楽劇である「仮面劇(マスク)」の伝統を持ち、さらに国王の庇護のもとに豊かな演劇文化を育んでいましたので、オペラが根付く素地が充分にあったのかもしれませんが、政治的な理由により、そうはなりませんでした。
シェイクスピアが没した30年ほど後、清教徒革命により劇場は封鎖され、演劇は禁止されてしまったのです。しかし、そんななかで密かに演劇を再興しようという動きも起こりました。1656年、イギリスで最初のオペラと一般的に言われる、ダヴェナントの台本に作曲された『ロードス島包囲』が上演されます。
その後、1660年に王政復古が果たされ、いよいよ、イギリスのバロック・オペラが華開くこととなります。大作曲家ヘンリー・パーセルが登場し、現在でも上演されているオペラ『ディドとエネアス』や『妖精の女王』などを作曲するのです。パーセルの音楽は後のイギリスの作曲家たちに多大な影響を遺しました。ブリテンもその一人で、『夏の夜の夢』にもパーセルへのオマージュが見られます。

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2016.04.24

シェイクスピアの時代の演劇 その2

1588年のスペイン艦隊撃破に象徴されるように、16世紀後半のイギリスは興隆していました。首都ロンドンも都市として急成長し、人口の増加が演劇文化の発展に寄与しました。劇場において、一般の市民は、平土間で立ったまま鑑賞するのであれば、非常に安価で観劇でき(パンひとかたまりの値段に相当するとも)、追加料金を払えば、全体が見渡しやすい椅子の席に通されました。この頃は屋外劇場が主でしたが、夏であればイギリスは日が長いので、夕刻~夜の上演が可能でした。シェイクスピアの劇団が拠点としたグローブ座も屋外劇場で、収容人数が2000~3000人と言われていますから、KOBELCO大ホールよりも大人数です(ところで、最初のグローブ座は、『ヘンリー8世』上演中に、舞台装置の大砲から出火したことが原因で焼失したとか)。一方で、規模が小さく、その分入場料の高い屋内劇場も建ち始め、シェイクスピアの劇団もブラックフライヤーズ座という屋内劇場をもう一つの拠点としました。ちなみに、この頃女優はいませんでしたので、女性の役は少年が演じました。
隆盛をきわめたイギリス・ルネサンス演劇でしたが、かねてから演劇、劇場を「悪」と見なしていた清教徒たちの力が増し、清教徒革命によって1642年に劇場は閉鎖され、ついに終焉を迎えることとなりました。

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2016.04.17

シェイクスピアの時代の演劇 その1

シェイクスピアが活躍した、女王エリザベス1世の治世から次のジェームス1世の治世を含め、17世紀半ばに清教徒により劇場が閉鎖されるまで栄えた演劇を“イギリス・ルネサンス演劇”と呼びます。
イギリスにはエリザベス朝以前から、貴族をパトロンとする劇団が存在していました。そして、そうしたプロの劇団と浮浪者の集団の区別が、法律のうえでも明確にされていきました。プロの劇団は、貴族の宮廷で上演をしつつ、広場の仮設劇場や宿屋での巡演をしていたようです。そんななか、1576年にジェイムズ・バーベッジという人が「ザ・シアター(シアター座)」という劇場を建て、これがイギリスで最初の、本格的な公共劇場となったと一般的には言われています。
次第に、エリザベス女王の演劇好きによって、王室の保護も手厚くなります。俳優たちは女王陛下の御前公演をおこなう名誉を得、一方で、次々と設立されたロンドンの公共劇場において一般市民に向けても上演し、人気と収入を得たのです。

1596年に描かれたスワン座のスケッチ

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2016.03.27

シェイクスピアの生涯 その3

当時の演劇事情については、改めて触れたいと思いますが、劇作家の報酬というのはさほど大きくなかったようです。しかし晩年のシェイクスピアは、経済的に非常に裕福な状況にありました。なぜでしょう。彼は作家としてよりは、劇場の株主の一人として興行収入を得、さらにそれを投資に回すことによって、財源を得たのです。1597年、弱冠33歳にしてストラトフォードで2番目に大きな邸宅=ニュー・プレイスを購入しています。
その後は『ハムレット』(1600年頃)、『オセロー』(04年頃)、『リア王』(05年頃)といった傑作を上演、1603年からは国王自らが劇団のパトロンとなるなど、市民、権力者ともに支持されました。 1613年頃には引退してストラトフォードに暮らすようになり、1616年4月23日、52歳で没しました。没する前には、遺言状によって遺される家族への遺産分配について細かに記していますが、結局、死後半世紀ほどで直系の子孫は絶えてしまいました。
ストラトフォードにあるシェイクスピアの墓碑銘には、「私の骨を動かす人に呪いを」という有名な文言が記されています。

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2016.03.20

シェイクスピアの生涯 その2

1592年に没した作家ロバート・グリーンの死後に出版された『三文の知恵』という著書に、はっきりと名ざししてはいないものの、明らかにシェイクスピアについて言及している思われる文章があります。それは、シェイクスピアがロンドンでもてはやされていることを批判する内容でした。つまり、この頃にはすでにシェイクスピアが売れっ子作家の地位にあったということです。しかしながら、いつどのようにしてロンドンに移り、名声を得るまでになったのかはまるで謎。1585年の双子の出生よりも以前にロンドンに出ていた可能性もありますので、シェイクスピアの「失われた年月」は7年以上にわたるのです。
その後、1595年の王室の財務記録に、シェイクスピアの名前が見られます。(ちなみに、『夏の夜の夢』はこの頃の作とみられています。)それによると、彼が「宮内大臣一座」(1594年創設、1603年からは「国王一座」に改称)の主要メンバーとなっていたことが分かります。その劇団は、当初、ロンドンで初めての本格的な常設劇場となった「シアター座」を本拠地にしていましたが、後に1599年に移転して建てられた「グローブ座」を拠点とするようになりました。シェイクスピアは劇団の俳優兼座付き作家であっただけでなく、劇団の共同所有者として、経営にも関与しました。


現在のグローブ座

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2016.03.11

シェイクスピアの生涯 その1

シェイクスピアは、ストラトフォード=アポン=エイヴォンという、ロンドンからおよそ150キロ離れたイングランド中部の街で生まれました。1564年4月25日に洗礼を受けたという記録が残されています。父は革手袋職人で地元の名士、母も高い身分の出身で、後に父の経済状況は悪くなってしまうのですが、幼い頃は比較的裕福であったようです。正確なことは分かりませんが、地元のグラマー・スクール(ラテン語教育を中心とした初等学校)で学んだのではないか、そしてその際に演劇に触れることもあったのではないかと推測されています。また、大学教育は受けていないと見るむきが多いようです。
18歳の時、ストラトフォードで7~8歳年上の女性アン・ハサウェイと結婚(授かり婚だった)し、翌年長女を、その2年後(1585年)に双子の男女をもうけたということ、そして男の子の方は子どもの頃に亡くなってしまったということが記録に残されています。
その後、シェイクスピアらしき人物についての記述が見られるのは、ロンドンで書かれたある作家の文章において。1592年のことです。


シェイクスピアの生家

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2016.03.03

没後400年、シェイクスピアの世界へ

こちらのコラムのページでは、作品にまつわる様々な情報を少しずつご紹介していきます。
はじめに、原作者ウィリアム・シェイクスピアの話題から始めましょう。シェイクスピアの生涯については、明らかな事実が少なく、今日まで、様々な研究家が数々の仮説を立ててきました。本当の誕生日は何日か、ということから、どのような教育を受けたのか、どのようにして演劇の道に進んだのか、故郷ストラトフォードからロンドンへはいつ、なぜ移住したのか・・・。手紙や日記などが残されておらず、謎が多いことから、実は「シェイクスピア」とは複数人の劇作家が使いまわしたペンネームだったとか、実は哲学者フランシス・ベイコンだったとか、実は女だった!とまで、様々な憶測が飛び交っているのです。ここからはまず、史実と一般的な仮説を交えながら、まずは彼の生涯についての概要をお話ししていきます。

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2016.01.26

ようこそ、『夏の夜の夢』の世界へ!

2016年に没後400年を迎えるウィリアム・シェイクスピア(1564~1616)の名作戯曲『夏の夜の夢』。演劇はもちろん、バレエ、管弦楽、映画など、様々な形で上演され、世界中で愛されてきたこの傑作喜劇を、20世紀を代表するイギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテン(1913~1976)がオペラ化した本作品には、いたずら好きな妖精パック、森の中に咲き乱れる草花、恋人たちを惑わす魔法の薬など、愛すべき英国のエッセンスが凝縮されています。

こちらの<コラム>では、そんな『夏の夜の夢』の物語の奥深くを覗き、作品をよりお楽しみいただくための情報を少しずつご紹介してまいります。
どうぞお楽しみに。

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