News最新情報
2025.06.18
「さまよえるオランダ人」の見どころに迫る!特別寄稿

開館20周年の節目に芸術監督プロデュースオペラで初めて取り上げるワーグナーのオペラ。この20年、多彩な作品をご覧いただいた皆様の中にも、「ワーグナーって難解なイメージが…」という方がいらっしゃるかもしれません。
ですが、実は、現代でお馴染みのSF映画やSF小説、ロールプレイングゲームなどにも、ワーグナーの神話的な世界観や壮大な音楽に通ずる要素はたくさんあり、私たちがワーグナー・オペラの物語に没入して楽しむことはそんなに難しいことではないのです。そう、ワーグナーなんか、こわくない!!
「でも、いったいどんな物語なの?」という皆様もご安心を。音楽評論家の堀内修さんに、「救う女」をキーワードに、このオペラの面白さへと導いていただきましょう!
ワーグナーの「救う女」が現われる
堀内 修(音楽評論家)
「7年の時が過ぎた」。嵐の夜の暗い海に出現した真っ赤な帆の幽霊船から降りた男が歌い出す。呪われた海の男、オランダ人だ。なにか怖ろしいことが起こるかもしれない。
でも歌に耳を傾けると、海の男が怒っているのではなく、救いを求めているのがわかる。海をさまよい、7年に1度しか上陸を許されないオランダ人は、愛を捧げてくれる人がいなければ再び海に戻り、さまよい続けなければならない運命なのだ。オランダ人は果して救われるのだろうか?

ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)
糸を紡ぐ娘たちの中から、ヨーホーホヘー!と奇妙なかけ声で、呪われた男を救う女がオペラのまん中に登場する。これは救いを求める男と救う女のオペラだ。
仲間の娘たちはゼンタの不思議な歌に驚くが、客席で聴く者だってびっくりする。船長の娘は肖像画に描かれた伝説のオランダ人に心ひかれ、この人を救うのは自分だと思い定めたのだ。歌われるバラードで優しく恋心を歌ったりなどしない。強力な声とドラマティックな歌は聴く者を圧倒する。これがワーグナーの「愛の力で救う女」の登場だ。やがて「救う女」は<ローエングリン>のエルザや<ニーベルンクの指環>のブリュンヒルデになって、時代を魅了することになる。
<さまよえるオランダ人>はワーグナーが自分の作風を確立した作品なので、それまでパリやミラノやウィーンで人気を得ていたオペラとはまったく違っている。だが人をとまどわせながら世に出たオペラは、やがて世界をロマンティック・オペラへと導いていく。舞台でくり広げられるのは、隣の町で起ってもおかしくない現実社会の出来事ではない。恋人たちは甘い恋をささやいて幸福を得るのではなく、激しく、破滅的な恋をして死に至る。<さまよえるオランダ人>において、死は悲しい結末どころか、喜ばしい救いだ。最初はためらいがちに、やがて熱狂して、時代はロマンティック・オペラを受け入れる。驚くべきことに、<さまよえるオランダ人>で幕を開けたワーグナーの世界は、19~20世紀の人々だけでなく、現代でも世界中で猛威をふるっている。

ゼンタとオランダ人によるデュエットのシーン(フリードリヒ・デパルムによる舞台模型)
救う女と救いを求める男が、ゼンタの父親の家で出会う。ありふれた出会いだが、ゼンタとオランダ人が穏やかに二重唱を歌うはずがない。180年前に聴いた人は身体をのけぞらせたろうが、いまは待ってましたと身を乗り出す。救う女と救われる男の二重唱は、安全な恋の限界を超えて高揚していく。声が美しく溶け合いますねとか、今日のソプラノとバリトンはどちらもなかなか立派じゃありませんかと、落ち着いて評定するには不向きだが、どこまで飛んで行ってしまうのかと、手に汗握りながらの興奮を求めるのなら、持ってこいというものだ。
異形のヒロインを囲んでいる父親や乳母や元恋人、一緒に糸を紡ぐ娘たちも、ごく普通の人たちで、立派に異形を際立たせる役を果している。でも、水夫たちのたくましい合唱や幽霊船の船員たちの不気味な合唱は、日常的な世界ではなく、別の世界から響いてくるように感じられないだろうか。ロマン派音楽はここで一線を越えようとしている。さらに大きな働きをするのはオーケストラだ。ワーグナーの管弦楽はおとなしく歌の伴奏をするどころか、縦横無尽に活動し、オペラを動かし続ける。時には糸紡ぎの娘たちの明るい仕事と、絶えず変化しながらオペラを進めていく。昔のオペラ好きが、ワーグナーは主役を歌手からオーケストラに譲り渡してしまったと言った苦情は、満更的はずれでもない。<さまよえるオランダ人>で、救う女は雄弁な配下を従えている。
オペラのシリーズが始まって、20年の時が過ぎた。ついに兵庫県立芸術文化センターの舞台に、ワーグナーの「救う女」が現われる。